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Interview
佐々木昭一郎監督
オフィシャル・インタヴュー
聞き手・構成:佐野亨

創りつづけるということ

ミンヨンという大いなる知性との出会い

佐々木

 今回の映画づくりのきっかけは、ミンヨンに出会ったことです。僕はその直前まで、もう映像の世界から足を洗おうと思っていたんですよ。どこでもそうですが、いまの社会では会社組織を辞めたら、ただの人になってしまう。それで過去にもらった賞状やトロフィーの類は全部捨てて、大学の先生になったんですが、心のどこかに作品をつくりたいという気持ちがあったことはたしかです。新作のシナリオはいつも頭のなかで書いていました。
 そんななか、1990年代後半くらいから、あちこちで上映会が頻繁に開かれるようになったんです。2001年には多摩映画祭で「RESPECT佐々木昭一郎」という大々的な回顧上映がおこなわれ、是枝裕和さんと対談しました。そのときの対談のシメで是枝さんが「新作を期待します」とおっしゃったんですが、私としてはすでに映像の世界から離れて、まったく違う人間になってしまったという認識があるので、きっぱり「もうつくりません」とお答えしたんです。それでも会場から盛大な拍手が沸き起こったので、思わず「じゃあ、つくります」と嘘をついてしまったんですが(笑)。

 宣言したからには作品をつくりたいけれど、さて、どうしたらいいかわからない。そんなときミンヨンに出会ったんです。2004年のことでした。彼女は早稲田大学の政治経済学部の留学生で、高橋世織さんのゼミでおこなった「夢の島少女」の上映を手伝っていました。同じ年に横浜の放送ライブラリーで今野勉さんの企画で開催された上映会があったんですが、そこに政経学部の中島奨くんという青年が観客として来ていて、「佐々木さんの『夢の島少女』を高校生のときに観て、大変感銘を受けました」と真剣な顔つきで言われたんです。それで同年暮れに早稲田で上映会をすることになり、その会場でミンヨンと出会いました。上映が終わったあと、彼女が質問をしたんですが、その声の響き、日本語の美しさにとても感心したんです。さらにそのあとゼミ生たちと移動した近くの喫茶店で、彼女の話を聞きました。ミンヨンは小学生のときから日本で暮らしていて、「日本に来て、周りの同級生が自分の判断で物事を決めていることに驚きました。私はそれまで神様に相談して物事を決めていたんです。以来、私も自分の判断で物事を決めるようになりました。だから日本人には感謝しています」という話をしたんです。なんて頭がよくて、温かい人なんだろうと思いました。大げさに言えば、母なる偉大さというか、大いなる知性を持った人だなと。これは中尾(幸世)さんも含め、いままで経験したことのない感覚でした。



佐々木丸、出航!



 ミンヨンで映画をつくりたい。ただ、TVに売り込む気はないし、かといって映画の創り方なんかわからない。どうしようもなくて悶々としていたところ、岩波ホールで『ポー川のひかり』(06)というイタリア映画が上映され、「川の流れはバイオリンの音」のコーディネーターを務めた、クレモナ在住の石井髙さんから「観てほしい」と言われたんです。それで観に行ったら、「川の流れはバイオリンの音」の川岸の村人たちが出演していて、「このエルマンノ・オルミというやつは俺の作品を真似たんじゃないか」と思いもしましたが(笑)、キリスト教批評の映画としてよくできていました。そのあとで石井さんと遠藤利男さんが「佐々木昭一郎が『ポー川のひかり』をどうとらえるか楽しみだ」というメールをくれたんですが、そこに岩波ホールのはらだ(たけひで)さんのアドレスが書かれていたんです。それではらださんに感想をメールしたところ、びっくりした返事が来てね。どうやら僕が死んでいるものと思っていたらしい(笑)。はらださんは10代のときに「さすらい」を観て以来、僕の作品をずっと観てくれていたんですね。それでさっそくお会いしたところ、映画の企画の話をもらったんですよ。『被爆のマリア』という物語で、はらださんが長崎という土地に対する思いからずっと温めていた企画だったんです。僕は即座にこれはできないと思いました。それでもはらださんは山上(徹二郎)さんというプロデューサーを探し出してきて、映画を進めようとしていた。僕は僕でミンヨンで映画が撮れないかと考えていましたが、そんなこと言ったらスポンサーに逃げられちゃうから(笑)、そのときは黙っていたんです。

 その後、撮影の吉田秀夫、音響の岩崎進、編集の松本哲夫というかつてのメンバーに声をかけたところ、「佐々木さんが映画をつくるなんてすごいことだ!」と言って参加を快諾してくれました。そして、山上さんも加わった企画会議の席で、初めてミンヨンのことを話したんです。そうしたら皆、喜んでくれてね。「主役がもう決まっているなんてすごい!」と。「佐々木丸、出航!」と盛り上がりました。



人生を賭けた映画づくり



 実はそのときにはミンヨン本人の出演承諾は取りつけていなかったんですよ。ミンヨンが2006年に韓国へ帰国する際、僕に会いに来てくれたんですが、実はそのとき交換したメールアドレスに映画のストーリーを送っていたんです。「素晴らしい!」という返事をくれたので、僕は勝手に出演をOKしてくれたものと思い込んでいたんですね(笑)。彼女からしたら、まさか自分が主演だとは思ってもみなかったんでしょう。それでいざ本当に映画が動き出して、あらためて出演依頼をしたら、「ノー」という返事がかえってきた。ちょうど僕の親友が亡くなって、プラハでお葬式をしていた最中でした。それで「日本へ帰る途中にソウルへ寄るから、とにかく一度話を聞いてほしい」と彼女に頼み込んで、会いに行ったんです。ミンヨンは妹のユンヨンと一緒に出迎えてくれました。でも、映画出演に関しては、「いまインターンをやりながら卒論を進めていて、しかも就職に向けて活動しているところなので、全然時間がありません」と。「そこをなんとか……」と頼み込んで別れたんですが、10分もしないうちにメールが来て、「やっぱり無理です」と。落胆して日本へ帰ってきたんですが、あきらめきれずその後も何度かソウルに足を運びました。ソウルの就職戦線が大変なことになっているのは知っていたから申し訳ない気持ちもあるけれど、僕としてはなんとしても彼女で撮りたい、と。ほかの人を使うことは考えられなかったですね。はらださんや山上さんは代わりの人を見つけようといろいろ努力してくれたんですが。そのときには、僕はこの映画に人生を賭けるつもりでいました。とにかくミンヨンという素晴らしい人間を映画で見せたい、と。

 それで、どうして断られたのだろうと僕なりに考えて、「そうだ、ご両親の顔を立てなければ」とまたソウルに飛んで、ミンヨンのお父さんにお会いしたんです。あれこれお話ししたあとにお父さんが「最後に決めるのは娘だ」とおっしゃった。それでいったん家族で話し合ってもらい、翌朝ホテルで会ったんですが、やはり「無理です」と断られてしまった。それでもあきらめず、何日か経ったあとに手紙を書いて、もういちど会いに行きました。そのときにはお父さんは僕の味方になってくれていたんです。それで二人で話したあと、お父さんはまた「家へ帰って相談します。返事は明日までお待ちください」と。翌日ホテルの部屋で悶々としながら待っていたら、ご両親二人がロビーにやって来て、「佐々木さん、娘はOKしてくれました」とおっしゃった。本当に嬉しくて、心のなかでバンザイしましたね。それで家族そろって日本へ来てくれることになり、妹のユンヨンも映画に出てくれることになりました。



突発的なひらめきと自然体の演技者たち



 そうしてシノプシスをまとめるうちに、はらださんが当初僕にやらせようとしていた長崎の話が絡んできたりして、内容がふくらんでいきました。
 さらにある日の会合で、戦時中の僕の体験を話したところ、秀さん(吉田秀夫)が「それはぜひ作品に盛り込むべきだ」と。つまり、この件に関しては秀さんが犯人なんです(笑)。あと、神父にああいう十字架を持たせたのも秀さんのアイデア。「なにか持たせたほうがいい」というので、秀さんが持ってきた大きな十字架に現場で時計をくくりつけました。
 出演者はミンヨン以外はほとんど決まってなくて、現場の思いつきで配役していったんですよ。旦部(辰徳)くんはミンヨンと同じゼミの学生だった青年だし、少年(高原勇大)が決まったのも製作が動き出してしばらく経ってから。「編集長役は誰がいいかな」と考えた末、高原さんのお父さんに出てもらったり。
 全体のシノプシスは決まっていても、具体的な内容は撮影が始まってみないとわからないので、だいたい朝の5時くらいに撮影台本をスタッフにメールするんです。僕は作品をつくっているときは、眠っていても頭は起きているんですね。朝起きると、ふとひらめいて携帯電話にその内容を書き留めるんです。ただ、それもまた現場の思いつきでどんどん変わっていく。
 ミンヨンが英語で会話しているところに少年が近づいていって、「英語でしゃべってる!」と言ってくれ、とかね。ああいうことは、全部現場で思いついた演出なんですよ。彼(高原)はこれまでまったく演技経験がないんですが、僕は子どもに接するときでも絶対に子ども扱いしないんです。「高原さん」と呼んで、必ず敬語で話しかける。これはすごく大切なことですね。武藤(英明)さんが今回、市立船橋高校の吹奏楽部を指揮してくれたんですが、彼も演奏者には必ず敬語で話しかけます。「そこ、そんなんじゃ駄目だ!」とか、そういう言葉遣いは一切しない。丁寧な言葉で接すると、相手も必ず丁寧に応えてくれるものですよ。「バカ、俺の言ったとおりやれ!」なんて言ってると、全部パターンの演技になってしまって面白くない。いかにその人の豊かさを引き出すか、ということが大事なのであってね。

 「こういう演技をしてくれ」ということも僕は一切言いません。ただ、撮影の内容だけを伝えて、あとはその人がそれを飲み込んで、自分の考えで動いてくれればいい。たとえば、「さすらい」の安仁ひろしや友川かずきだったら、画面に映っている彼らの姿に、はっきりと彼らという人間、彼らの生活がにじみ出ているんです。僕がプロの俳優を使わない理由もそこで、常日頃「こういう演技をしてくれ」と言われつづけていると、俳優は本当にそういう演技しかできなくなるんですよ。あと、映画の助監督なんかにしても、「本番!」とか気違いじみた声を出すでしょう。あれでは演技者は委縮してしまいますね。僕はカメラのうしろには絶対人を立たせないようにしています。僕すら立たないですよ。撮影の間はなるべくそっぽ向くようにしてる(笑)。撮影の秀さんもすごく柔軟な撮り方をする人で、カメラを自由にぐるぐる回したりするから、そばにスタッフがいると映り込んじゃうんです。今回、渋谷の雑踏のなかでああいう撮影ができたのも、僕らは離れた場所にいて、カメラマンと演技者だけがあの場にいたからできたことなんじゃないかな。そういえば、今年の1月にこの映画の編集を始めた際、これは『シェルブールの雨傘』だな、と思ったんです。あの渋谷のスクランブル交差点の風景は、僕にとっては、雨傘のように広がる凱旋門なんですよ。あの放射状の風景のなかで、登場人物のさまざまな心理がぶつかりあい、混ざり合い、さらにはあそこを中心として、日本中に回路が張り巡らされていく。そういう意味で非常に地政学的な物語でもあるんです。



歌が映画を完成させた



 そうして2010年のクリスマスごろには、映画の98パーセントを撮り終わっていました。ところが年が明けてあの大震災が発生した。僕が宮城県育ちのせいもありますが、震災を口実にして編集を引き延ばすうちに文部省の助成金も棒に振ってしまった。撮り終わったラッシュを観る気も起らないんですよ。はらださんや秀さんをはじめとするスタッフには大変迷惑をかけました。ただ、それでもあのままつづけていたら、ただの「佐々木昭一郎の新作」で終わっていた気がするんです。そうこうするうちに、ふと母親がことあるごとに讃美歌を口ずさんでいたことを思い出した。兄弟喧嘩なんかしてると、横で「兄弟仲良く、一緒に遊べ」という歌を唄ったりする。それでミンヨンにもなにか唄わせるべきなんじゃないか、と思いついたんですよ。ちょうどそのとき、TVで市立船橋高校の吹奏楽部が全国大会一位になったというニュースを観て、よし彼らに演奏してもらおう、と考えた。
周りの皆は、僕が「ジュピターでいこう!」とか「ここはジョージアマーチのメロディだ」
とか言っても、それが実際にどう作品に組み込まれていくのか、あまりイメージできなかったようですが。ただ、僕にはこの映画が歌によって完成に至るという確信があったし、根拠はわからないけれど「これで勝てる」と強く感じていたんです。



映像詩人にあらず



 僕の作品はよく「映像詩」と言われますが、僕自身はそういう表現をあまり好ましく思っていないんです。僕は詩人じゃないし、詩を書いたこともない。自分ではやはりシナリオライターという意識があるんですよ。フランスの作家でいえば、ジャン・クロード・カリエールのようなね。つねに科学的に、論理的に物事を見て書くタイプなんです。あと、詩的だといわれるけれど、僕の作品には劇的構造もちゃんとある。ただ、そういう理屈の部分はなるべく隠さなければ面白くない。それで僕のことを知らない人は作品だけを観て、いかにも詩を書きそうな青白い痩せ細った人を想像するらしいんだけど、冗談じゃない。作品をつくるにはエネルギッシュじゃないとできないんですよ。つくったあとで背後から斬りつけられる覚悟でいけなきゃいけないし、時には喧嘩もしなきゃならない。
僕の作品ははたしてどのジャンルに属するものなのかよくわからないし、僕という人間もわからない。ただ、周りの人たちは佐々木昭一郎という人間に対して、あるイメージを持っているわけでしょう。だから、僕も取材を受けたり、誰かと仕事のうえで話をするときは、そのイメージを一緒にクリエイトしなければならないんです。たとえば「巨大な隕石」と書いてもらったってかまわない。ある日突然、地球に落ちてきた巨大な隕石で、絶えず震動を起こしている、とかね。実際本人に会ってもなお素顔がわからない謎の人物、というのでもいいわけ(笑)。わからないからこそ創りつづける。やはりそれが真実なんじゃないかな。




(2014年9月19日、岩波ホールにて)