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ミンヨンの笑顔とモーツァルトの音楽、その優しさと明るさのハーモニーの中に溶けこむ夢を見ているようでした。

中尾幸世

何よりも、ミンヨンの魅力に圧倒されました。顔立ち、立ち姿、声、振る舞い、言語能力、そして何よりも、その精神性。天性の明るさが本当に、"青空"に似合っていて、感動しました。これは佐々木さんの「第九」だと思いました。モーツァルトのジュピターが主旋律ですが、佐々木さんが今までで、最も明るい作品に仕上げようとなさっている姿勢がひしと感じられました。作品の中で、人生を力強く肯定できる佐々木さんを、とても誇らしく思います。

佐藤幹夫

「ミンヨン倍音の法則」 なんという映画でしょう。誰もが創り得なかった、どこにも存在しなかった世界が目の前に繰り広げられていきます。一人の優れた創り手が己の全てを賭けて描く世界の迫力が、凄まじいエネルギーとなって迫ってきます。批評したり、感想を述べたりする領域を超えているのでしょう。
以下は、ほかに思ったことです。
1.見終わって、何故か気持ちが優しくなっています。その後、会った人に優しく接することが出来ました。
2.戦前、大戦中、戦後、そして現在…同じ時代を呼吸して来た私(1935・満州生まれ)には、時代の匂いが、理屈なしに同感できます。
3.懐かしい顔に沢山会えました。特に風鈴作りのオジサン…なんていい人なんでしょう。

一ノ瀬邦夫

作品の余韻を反芻しています。美しい映像と音楽を駆使して創り上げられた、時空を自在に往き来する詩的創造の世界。まさに「ササキ・ワールド」全開の集大成的作品と感じました。ミンヨンさんは素晴らしい。彼女の使い分ける三つの言語は、それぞれが「倍音」となって訴える効果を生んでいるように思います。よく透る、素晴らしい声ですが、プロフェッショナルな訓練はおそらく受けていない素朴さが効果的で、役柄にピタリだと思いました。少年役の感性も誠に優れています。モーツァルト(あるいは音楽すべて)に捧げられたオマージュであると同時に、この作品は人間へのオマージュだと感得しました。点綴される、(キリストを思わせる)十字架を担ぐ僧、年輪を経た職人たちの相貌、のイメージの象徴性は、観る者の深層心理に訴えるところがあります。

竹内修司

ミンヨンは表情も立ち振る舞いもとてもいいけれど、声がいいですね。びっくりしました。その声と音につられて、「時間」を行ったり来たりする気分が刺激的でした。解りにくいという人がいるだろうと思いますが、こういうのを「心地よい難解」というのです。とてもいい気分で映画を見終わりました。

戸田桂太

すごい傑作!なにより映像と音楽が素晴らしい!この作品は佐々木さんの夢を描いた、いわば夢の結晶。繊細な感性と、その奥に秘めた内面の葛藤。言葉を越え、国境や民族を越えた人々の思い。それらが実に心地よい音楽に乗りながら、心の奥深くに届きました。

宮川和幸

根こそぎ映画の価値観が変わるような作品でした。カルチャーショックです。本当に、浴びるように映画を観ていたような気がします。「光」のようでした。

橘 麦

夢、それは美しいハーモニー。

正直、
この作品の最初の印象は理解できなかったというより、わからなかった。
ひとつのテーマもなく、
ひとつのストーリーもなく、
佐々木昭一郎監督の感性のおもむくままに展開していったからである。

しかし、
この作品は理屈で捉えるのではなく、感性で感じる映画であると気付いた。
まるで、モーツァルトの旋律に導かれて、一人旅をするかのように。
つまり、映画『ミンヨン倍音の法則』は、音楽の本質にも通じるとも言える。

佐々木昭一郎監督の断面的な悲しい記憶は、ミンヨンの明るい笑顔とモーツァルトの交響曲『ジュピター』によって打ち消されていく。

作品の印象は、雨が「ザァーザァー」と降っているのに太陽が顔をだし、空が晴れている景色を思い出す。一滴、一滴の雨粒は、自然光によってキラキラと宝石のように光輝く平安な世界だ。

ミンヨンは、倍音について「今は町に溢れる電子音により、オーケストラや川のせせらぎなど、自然界の心地よい音は押しつぶされそうになっています」と、語っている。さらに、ミンヨンの妹は、夢の中でモーツァルトに倍音とは何かとたずねると、『倍音とは「円」であり、どこで切っても又つながる「円」である。だから何があっても悲しいことはない』と言っている。
佐々木昭一郎監督は、倍音というキーワードをもちいて、国を超え、人種を越え、時代を超え、ひとつの夢を抱いたのであろう。
美しいハーモニーが世界中で響き渡る、平和な世界を。

鈴木元彦

前半は、何らか、この映画世界の「てがかり」のようなものを見つけようとしていた。有名な原作はなく/俳優がなく/自然な演技なく/シーンに脈絡なく……と、「映画」たるものから色々なものが圧倒的に「ない」ことにより、入り込む隙もなく、かわされつづけ……

一方、何が「ある」のかに着目しても、日本と韓国の複数の舞台や、ウディ・アレン調のメタ的なカメラ目線、人工と誇張にみちたキャンプな演技、シーン及び楽曲の繰り返しの使用、りんご・猫など使い古された小道具までも、むしろ映画を把握させないように働いているかのようで、すこしすると「ない」ことも「ある」ことも、圧倒的な抽象性のその物理的な量をもって、夢だ——と理解でき、「読み取るな」と、そう読み取れました。

そうしてある種、解放されて観ているうちに、目の前のイメージから遠ざかる中で浮かぶ、いくつかの確かなもの……旋律の美しさや、日本家屋/塩/氷/空などの画の美しさ。

早稲田大学、劇中の古い写真、音楽の豊富な引き出しや具体的な日時を含む戦争体験、インタビューシーン、そして監督の自伝的な作品だろうという予測。ただ、それが監督による独り語りにならないのは「少年」が主役ではなく、「ミンヨン」が中心にあって、ユンヨンも含めた彼女らの卓越した語学力から十分に推測できる、実在する(であろう)知性が、不確実性に満ちた時間を支える柱としてあるのではないかと思いました。

鈴木壮一

映画美学校試写室で佐々木昭一郎監督『ミンヨン 倍音の法則』を拝見。

2010年にユーロスペースで特集上映「佐々木昭一郎というジャンル」が開催された際、僕は佐々木監督にインタビュー取材をおこなっている。
http://intro.ne.jp/contents/2010/07/24_1622.html

そのとき監督が約15年ぶり(最終的には20年ぶりの新作となったわけだが)の新作にして初の長篇映画を準備していることを知り、「完成したら是非ご覧ください」とおっしゃっていただいた。
しばらくしてから岩波ホールの近日公開作品として、この映画のタイトルを見かけるようになったが、東日本大震災のあと、パッタリ動向が途絶えていた。
さらにしばらくして、今度は『モーツァルトの娘たち』と改題された本作の告知を目にしたが、やはり完成時期は未定のようだった。
それが先日、突然試写状をいただき、当初のタイトルで映画が完成したことを知らされた。

そして今日、ついに対面した『ミンヨン 倍音の法則』は、想像をはるかに超える奇跡的な傑作だった。
ミンヨンとは、主人公の韓国人女性の名前。
2004年に佐々木監督の母校である早稲田大学で「夢の島少女」(74)の上映がおこなわれた際、客席から質問を投げかけた留学生が彼女だったとい
佐々木監督は彼女の声に創作意欲を刺激され、以来すこしずつ本作の構想をふくらませていった。
つまり、この映画は、ひとりの女性の、文字どおり声によって、この世に生まれえたのである。
そして映画は、さながら音をめぐる旅のごときものとして進行する。
音がひとの記憶を呼びさまし、音が異なる時代をつなぎ、音がひとを何処かへといざなってゆく。

本作はまた、「さすらい」(71)、「紅い花」(76)、「四季・ユートピアノ」(80)といった過去の佐々木作品を引用することで、あるイメージを形成している。
しかし、それは決して自己模倣や退行ではない。
たとえば、「さすらい」の舞台となった神泉駅前の路地や住宅街が、はっきりその場所とわかるかたちで画面に登場するとき、観客は、「さすらい」を思い起こすと同時に、いま現在の神泉のまちの空気を体感する。この時間の跳躍こそが本作の最もスリリングなところである。
そして、これらのまちの風景は、昨今の日本映画が、フィルムコミッションへのよりかかりやまちおこし目的の誘致によって、のっぺりとフィルムに映し込んでいるまちとはちがい、佐々木監督が自身の生活動線のなかで見つけた風景だ。それがこの映画をすぐれた「まちの映画」にしている所以である。
かつて、佐々木昭一郎の作品は、TVの異端と呼ばれた。
しかしながら、というかそれゆえにというべきか、代表作である「夢の島少女」や「四季・ユートピアノ」をその後スクリーンで観たときには、TVという媒体そのものがそなえている日常性が介在しないためか、どこか不安定な感じ(肯定的に言えば繊細さ)をただよわせていたものだ。
時代はめぐり、現在のTVには佐々木昭一郎の居場所はもうない。
かわりにスクリーンでよみがえった佐々木昭一郎の世界は、映画としての圧倒的な強度を獲得していた。
これを奇跡と呼ばずしてなんと呼ぼうか。

佐野亨

ベルナルド・ベルトルッチがインタヴューで彼の初期の秀作、革命前夜、に関してインタビュアーが多種多様な質問を投げかけた時に、
ベルトリッチが苦笑しながら、批評家の方が作品に関し必要以上に深く細かく言葉で分析するんですね、と言っていた事を思い出す。

佐々木昭一郎監督のミンヨン倍音の法則も、僕には言葉での説明で全体像を語る事は難しい。

この映画は目と耳と心と僕に内在するイマージュで見た。

映画をジャンルやカテゴリーで優劣区分する事に僕は組しないが、優れたシネアストが固有のスタイルを駆使しメッセージを映像化する作品に惹かれる。

佐々木昭一郎監督のミンヨン倍音の法則は従前の映画の枠に入らないスタイリッシュなアレゴリーだ。

この映画は本を読み解くように、視て聴き解く事をモーツァルトを並奏し最初から最後迄、問いかける。
ミンヨンは優しく大きな翼を持つ時を超える夢旅人、ミンヨンは倍音の吟遊詩人、ミンヨンは過酷な時代の証人。
ミンヨンの歌う声、語る声が佐々木監督の心の扉を開いて、戦中と現代の間の夢橋を架ける。

櫻庭 充

○「ミンヨン倍音の法則」は、とても不思議な映画でした。

○ まず、ソウルの女子学生ミンヨンの声に魅了されました。それはクラシックとか、邦楽とか、その他いろいろな民俗的歌唱法など、どのジャンルにもはまらない天然の美声なのです。それは、例えば、ヒバリやウグイスなど声自慢の鳥たちに、“聞いて!これが人の声よ”といいたくなるような―。

○ その透明なソプラノで、ミンヨンは、モーツァルトから“みかんの花咲く丘”“リンゴの唄”など、日本の流行歌から応援歌、更にアメリカの民謡から“アリラン”まで、実に伸びやかに歌いあげるのです。

○ ミンヨンの歌声の翼に乗せられ、時代や国を超え、夢の世界へ導かれると、そこは彼女の祖母が持っていた、日本の親友、佐々木すえ子さんの家族写真の時代になって、ミンヨンは、すえ子さんの生きた第二次大戦をたどります。

○ 描かれていくのは、戦時中の過酷な体験や、佐々木監督の少年時代の辛い記憶などですが、そこにはいつも、モーツァルトの音楽と、ミンヨンの澄んだ歌声が鳴り響き、希望への道が暗示されているようでした。

○ よい耳が求めるよい音とは、どんなものなのでしょう。大地に耳を押し当てる少年とミンヨン。川の音、母の胎内の音が聞こえるという少年が、女の靴音を求める切なさ。良い聴覚は、戦闘機の爆音を聞き分ける役目も負わされる理不尽・・・。

○ 人間にとって、美しい音とはどういうものか。電子音に囲まれた現代のくらし。原子爆弾の炸裂音という唐突な問いが発せられるシンポジウム。確かに、私たちは、自然を遮断し、遠去る方向へ進んでいるなぁと思いつつ、自然の音も、やさしいだけではなく、台風、噴火、地震、津波など、荒れる時のすさまじさは、怖いなぁ・・・などと思う。

○ とにかく、これは、一篇の巨きな詩のような映画だと思います。正解がひとつ、あるのではなく、観る人が、それぞれの想いを汲み上げることが出来る、泉のような作品ではないでしょうか。

○ Harmonicsは、円。まあるくて、全てを抱擁する、しなやかな強さを持っているものなのでしょう。ミンヨンの人柄が、素直にそう思わせてくれました。

○今日は8月15日。69回目の終戦記念日です。困難な時代。様ざまな対立を、武力ではない方法で解決したい、そんな夢のかたち。美しい音楽に共鳴共振する歓びのうちに解決していけたら、という夢と憧れのメッセージとして、受けとめました。

柳瀬丈子

『ミンヨン 倍音の法則』は佐々木昭一郎が初めて作った「映画」ということだが、そのことに驚きはない。なぜなら、佐々木昭一郎が作ってきた数々のテレビ作品は常に「映画的」だったからだ。
『ミンヨン 倍音の法則』を見ながら、なんて風通しのいい映画だろう、と思った。画面は時として時間と空間を飛び越えていくのだが、普通の映画ならただギクシャクしたり、異化効果を生むような場面だが、軽やかな音楽に乗って実にスムーズに画面がつながっていく。その瞬間、スクリーンから風が吹いてくる。とかく決まりごとにがんじがらめになった映画がコンクリートで強固に固められた建築物だとすれば、『ミンヨン 倍音の法則』は適度なルーズさを兼ね備えつつ、実は合理的でもある、日本古来から続く日本家屋のようなものかもしれない。
そんな『ミンヨン 倍音の法則』だが、しばし風が淀む場面がある。戦時中の話が語られる場面だ。聞くところによると、佐々木昭一郎監督の父親はもとジャーナリストで、戦時中に反戦活動をしたことで軍に暗殺されたらしい。本作では佐々木監督が体験したことが再現されるのだが、この場面だけはそれまでの軽やかさは封印される。息苦しさが日々増していくような現在に対する佐々木監督の危機感の表れかもしれない。
佐々木昭一郎作品の特徴と言えば、職業俳優を使わない、ということがある。以前の作品をたまたま深夜のテレビで目撃した時に目が離せなくなったのも、これは果たしてドラマなのかドキュメンタリーなのか判然としなかったからだった。『ミンヨン 倍音の法則』はタイトルと同じくミンヨンという女性がミンヨンを演じている。より正確に言えば、ミンヨンが映画の人物ミンヨンを生きている、と言ったほうがいいかもしれない。本作ではモーツァルトの名曲が数々流れるが、ミンヨンの歌声も印象深い。
タイトルにある、倍音とは何か。映画の中の様々な要素が響きあう様が倍音かもしれない。しかし、映画が映画であることの楽しさは、スクリーンの世界と観客の世界が時には近づき、時には離れて共鳴しあう瞬間が訪れることだ。ならば、倍音の法則を見つけるのは、映画館の暗闇に身を潜める私たち自身なのだ。

本田孝義

『ミンヨン倍音の法則』
子どもの頃、佐々木昭一郎さんの番組を初めて見たときの新鮮な驚きをいまでも憶えている。
それまで見てきたテレビドラマとは全く違って、いわゆるお話の筋がなく、イメージのつらなりが直に自分の中に入ってくるような不思議な体験だった。
大宅壮一の「一億総白痴化」という言葉に煽られ、TVは低俗で害をもたらすものだと言われて久しかったが、佐々木さんが当時属しておられたNHKの先輩、吉田直哉さんは「そうじゃない、TVにはさまざまな可能性がある。そのことを証明するために私たちは知力をふり絞り、粉骨砕身して番組を作っていた」とのちに話しておられる。
佐々木昭一郎さんはどうだったのだろう?
もちろんTVの可能性を模索して番組制作に臨んでおられたのだろうと想像できる。
しかし佐々木さんの作られるものは明らかにTVという枠を飛び出すほどの何か得体のしれない力のようなものを持っていたと思う。だから「異端」とも言われたりもしたが、海外で数々の賞を受賞し、「次の作品はいつ?」と心待ちにするファンが大勢いた。NHKを退職された後はその作品に接する機会が無くなってしまい、いつか横浜の放送ライブラリーに行って見たいとずっと思っていた。

今回『ミンヨン倍音の法則』を大きなスクリーンで、そして整った音響設備で視聴してみて最初にわかったことは佐々木作品を昔のTVで見ていたのは余りにももったいなかったということだ。
奏でられる音楽、美しく発語される言葉、そして幾重にも重なっていくさまざまな国の言語のハーモニーが国境を越え、時間さえも飛び越えてさまざまなイメージを結びつけていく。それを目の当たりにしながら自分が小さな粒となって映像の中に溶け込み、宙を漂う感覚…。
あぁ、こんな素敵な体験ができた喜びを表現するのに言葉が足りない。


羽田野直子